母の死が近づく実感
このブログはチラシ裏みたいなもんだから、需要とか気にして書いてるわけじゃない。だから思ったことを今書きたいと思う。
今日、父親と二人で麻布十番までたい焼きを買いに行った。その理由は、ただ父親が食べたいからというだけだった。
その道中、父親は母のガンについて語ってくれた。
「ママのガンは、子宮のガンなんだ。」
「でも、子宮のガンって生存率が高いんじゃないの?」
「うん、だけどきっと進行していると思う。あんなに病院行けって言ったのに行かないもんだから」
俺は昨日、ブログを書き終わった後もガンについて調べた。子宮ガンなら生存率は75%くらい。母は運がいいし、きっと生き残って何事もなく生き残るだろうって。母方の祖父は、食道癌になって生存率も絶望的だったのに、なんだかんだ生き残っている。今は浮気してしまうくらいに元気なんだ。
そんな風に、母さんもなるだろうって。なんだかんだ病気と向かい合いながら長生きするんだろうって。
どうやら明々後日に病院で余命宣告を受けに行くらしい。つまり、ほぼ末期。
もしかしたら治るかもしれないし、余命宣告されても生きている人も何人もいることを俺は知っている。
でも、母はアウトローな人間だった。絶対にお酒はやめない。タバコも体に悪いと言っているのにやめない。抗がん剤治療は禿げるからいやだって。
俺のお母さんなんだってつくづく思った、どうせ死ぬなら好きな事したまま死にたいのだろう。
だけど、また今日、母はこんな話をしてくれた。
「昔は好きなことして死にたいとか言ってたけどさ、実際にこうなると生きたくなるもんなんだね。後悔とかあるわけじゃないんだけど」
そういってマルボロのメンソールに火をつけた。
昔は、なんども母が死ぬ夢を見ては泣いていた。今もそうだ。
だけど、今はこれが夢なんじゃないかと思うたびに泣きそうになる。それは、夢じゃないと現実がそう語っているから。
夢ならどれだけ良かったんだろうか。
俺は、今こうやって部屋で胸が苦しい思いをしながらブログを書いている。そして、チェ・レッドに火をつけている。今の俺じゃ、味わうこともできない。ただの現実逃避の一服だ。だけど、母がガンになっても違法な喫煙をするのは、やはり母の子なんだと皮肉にも感じた。